第二回:人間力を磨くということ

全国公立学校教頭会学校運営誌『夢を語ろう』寄稿[文:大原 光秦]

さて、先に見た人間力だが、その開発への企業の関心は強い。我々はそれを「人間性知能」と捉え、社員達の「大脳前頭連合野(前頭前野)の機能を高めること」を推奨している。その研究は脳科学者達の手によるものであり、専門書籍も出ているので詳細はそちらに委ねるが、人間性知能とは主体性や独創性、探究心、計画性、継続力などの未来志向力と、共感力、伝達力、協働力、感情(気分)制御力などの社会関係構築力を言う。つまり、それは多重知能(言語、数学、音楽、運動能力など)や記憶情報などを、目的に沿って効果的に活用する管制塔の役割を担っており、「夢を実現する脳」と表現されることもある。このように「人間力=大脳の機能」という理解が進めば、その開発を考えやすくなる。それをあえて単純化して言うならば、前頭連合野の機能を酷使し鍛錬するということ。ワクワクするような夢や志を打ち立て、それを実現すべく努力を継続する。その過程で乗り越えることの困難な課題や失敗に遭遇し、人に相談し、やがて頼りにされる自分づくりを進めていくことが肝要であろう。これは、企業現場における暗黙知的な人材育成実践事例はもとより、クランボルツの「計画された偶発性理論」など心理学分野における研究成果とも符合するところである。

消極的利己と組織の崩壊

 なぜ今、人間力が問題となっているのか。松下幸之助氏をはじめとする戦後復興に貢献した数々の経営者も、繰り返し「人間教育」の重要性を語ってきた。その大切さは昔も今も変わらない。しかし、ここに来て人間力開発がもっとも重要な経営課題だと意識化されるようになった。市場競争の変化に伴って、という事実ももちろんあるが、それ以上に人間力の発達不全が顕著、深刻なものとなっており、積極的な介入が求められ始めていると見るべきであろう。
 企業で働く若年労働者たち。かつての「モーレツ社員」はすっかり影を潜め、出世やチャレンジを求めないその働き方は「ほどほど族」と揶揄されている。そこには利己主義とされるほどの主張があるわけでもないところから、私は彼らを「消極的利己人間」と称している。利己主義者(積極的利己)のように、自分の快楽のために他者を損なうようなことはしないが、周囲の者に献身するようなことまではしない。勤務開始時間までには出社してくるが、早く出てきて積極的に掃除や準備をすることはない。「おはようございます」の言葉は言えるが、元気がなく声も小さく無表情。病理的原因(能力の欠落や意思の薄弱)があるわけではないし、意識的な反発でそう振る舞っている(意志)わけでもない。まったくの無意識であり、悪気など毛頭ない。規則を守ってさえいればあとは「自由」。他人に迷惑をかけていなければ何事も許されると考えているのか、毒にも薬にもならない人間群である。
 トインビーは「歴史の研究」(1961年)の中で、文明の滅亡に言及している。ひとたび勃興した文明が、侵略や天災によって突然に消え去ることなどなく、内側で生きる人たちが豊かさに溺れて自己決定能力を失い、やがて自滅の道を辿ったと述べている。ギリシャの事例では、ソフィストと呼ばれた知識人達がかつての宗教観や倫理観を蔑視する道徳相対論に走り、無制限の自由を流布したことが一国の滅亡を招いたと言っている。要するに、文明の崩壊は例外なく道徳的逸脱に始まる内部崩壊によると述べているのである。これを読んだとき、直感的に企業の倒産にも通じると思えたし、もしかすると学級崩壊にも言えることではないか、とも考える。