ビスタワークス研究所の志事(7) 文・大原 光秦

割り切りとは魂の弱さである〜亀井勝一郎氏の言葉に思うこと

 終戦から69回目の夏を迎えました。この季節は大東亜戦争にまつわるドキュメンタリーが多く放送されます。その時代を体験的に知らない私はひとつも見逃すまいと録画し、夜中に観る、というのが定番の真夏の過ごし方。今年は少し今までとは違う空気の流れる夏のように感じています。


 安倍政権が、近隣諸国や米国との関係の在り方を適正化すべく様々な試みを実行に移すなか、その評価は大きく分かれています。新聞の論調に厳しいものが多いなか、その急先鋒の朝日新聞が8月5日に驚く発表をしました。82年から96年まで16回も記事として取り上げてきた吉田証言(所謂従軍慰安婦問題の発端記事:戦時中、日本の軍令によって済州島などの朝鮮人女性を慰安婦として強制連行したとする告白証言)が虚偽であり、掲載記事が誤報であったと撤回したのです。吉田証言は河野談話(93年)の引き金になったものであり、国連に提出されたクマラスワミ報告(96年)や、米国下院121号決議(07年)などの有力な証拠としても引用されています。各方面に与えた影響の大きさから、日本国民に謝罪した上で世界に向けても報告すべきではないのか、とする声が多く上がっています。今回ここで考えてみたいのは、有力新聞社で記事を書くほどの知力を持つ人間集団が妄言を信じ込み、何故に悪戯に拡大・分散させるようなことを起こしてしまうのか、という点です。裏目的に反日ブラックプロパガンダを引き起こし、国家を転覆させようするなどの謀略があるのであればわからないでもありませんが、おそらくそんな悪意などなく、自らの正義を信じて言論しているものと思われます。

「自分の意志などなく、上の命令に従っただけだ」
〜アイヒマンの言葉〜

 記者と言えば…「ハンナ・アーレント」という映画を観ました。そのテーマは、ドイツ系ユダヤ人ハンナ・アーレント(哲学者・記者)が、ナチス党政権下でホロコーストを引き起こした当事者の一人、アイヒマンの裁判を傍聴する中で見出した「悪の凡庸さ(the banality of evil)」。彼女は、人間は「考える」ことによって強くあるべきだと主張しています。

 「ソクラテスやプラトン以来、私たちは"思考"を自分自身との静かな対話だと考えます。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質、すなわち思考する能力を放棄しました。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。"思考の嵐"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」(映画より抜粋)

 現代の国内犯罪分析もこの視点が重要であるように考えます。葛藤の末、自問自答を放棄し、問題を単純化し、割り切りの境地に入ってしまう。開き直った人間は自らを見直す意思が欠落しているため対話不能となります。日頃は普通に思えた人が、突然大きな事件を起こす。あるいは、殺人に発展してしまうのではないか、という連絡を受けながらも具体的な対応策に出ようとしない相談窓口や警察組織。日本人には、思想や哲学、宗教に依存することなく、それぞれに人間的な生き方を選択する資質が備わっていると思うのですが、どうも考える力や意志が欠落してきているように思えてなりません。


 数年前の夏、広島に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイ搭乗員ハロルド・アグニュー氏が爆心地を訪れ、家族を失い、自身も後遺症に苦しむ老女と対話するドキュメンタリーを観ました。その老女は、当事者からの「申し訳なかった」という一言を聞きたいという願いを持ち、生きていました。それを叶えるために放送局がアグニュー氏を広島に招き、資料館などもよく観てもらったうえで引き合わせたのですが…彼の回答は最後まで「NO」。そして最後にその女性の傍らで言い放ちました。「Remember Pearl Harbor」と。


 今年の7月、エノラ・ゲイの搭乗員で最後の生存者だったセオドア・バン・カーク氏が世を去ったと報道されました。彼も多くの取材を受け、様々なコメントを残しています。紛争解決手段としての戦争には懐疑的な立場のようでしたが、原子爆弾投下については一貫して「必要だった」と語り、「多くの人の命を守ったことに誇りに感じている」と述べています。もちろん、一時に何万人もの人間、それも非戦闘員を殺戮したわけですので、それを悔いるということはできなかったかもしれません。しかし、それぞれの当事者が残した言葉に、絶望的なほどの意識の歪みを感じざるを得ませんでした。

「誇り」とは

 大東亜戦争の時代、先人たちは「日本人の誇り」という表現を好んだようです。とても大切に扱うべき精神性だと思うのですが、時に洗脳を目的として利用され、拡散していく危うさがあるのも確かです。
 誇りとは、驕りや自信ではなく、また名誉でもない。誇りとは、代々受け継がれてきた志を次の世代に引き継ぐべく尽力する、そんな連続する魂ではないか、と私は考えます。真の誇りを有した個人や組織は強く、そして優しい。明治の頃までの日本には、誇りという概念を取り立てて必要としないほど、それが空気のように存在していたと想像します。それが敗戦へと向かう過程で大きく損なわれてしまった。概念化して継承されてきたものでなかったが故に、変質したことにも、占領下で巧妙に喪失させられてしまったことにも気付けていない。現代日本人が揺らいでいる所以ではないでしょうか。
 誇りを持って生きるということについて真剣に考えなければならないと思う、そんな夏です。