ビスタワークス研究所の志事(26) 文・大原 光秦

何処に向かうのか善なる被支配者たちよ

會津、義を學ぶ旅へ

 會津。盟友、会津三菱自動車の宮森さんの力添えで立ち上がった示道塾を機会に幾度となく訪れています。維新後、薩摩・長州に加勢した土佐の人間が災いを引き起こした歴史があり、いつも厳粛な心持ちで向かうのですが・・・忘れられないのが、會津示道塾第一期、平成26年春に初めて訪れ、超絶満開の桜で迎えられた鶴ヶ城(左下写真)。感無量の思いが心に焼き付く、私にとって特別な地です。

 昨年9月、會津の同志、金堀重機の春田夫妻と語らうなかで、現代版組踊の話題となりました。沖縄の『現代版組踊 肝高の阿麻和利』から始まり、地域の小中高校生を中心として演じられる舞台劇。會津では『現代版組踊「息吹」南山義民喜四郎伝』(囲み参照)として演目が組まれ、平成22年からすでに11年目を数えています。松平容保公の鶴ヶ城開城の決断と、その昔、村に住まう大切な人の為に立ち上がった男達の物語。それは是非とも観たい、今こそ観なければと思い立ち、喜多方での公演に合わせたこの3月に「義を學ぶ 會津の旅」を敢行致したところです。
 その開催間近、2月24日にロシア(以下露国)軍がウクライナ(以下宇国)に特別軍事作戦を展開、世界が騒然となりました。本稿を執筆する現在(4月11日時点)でも公式には帰趨が決していない状況。主流メディアは「宇国に支援を!露国には制裁を!」と、少年マンガの如き善と悪の図式に落とし込み、庶民を不可思議な世界に誘っています。
 日本國政府も早々に米国に追従して露国制裁を発動。露国からすると宣戦布告に値します。かつて我が國が欧米経済に締め出され、已むに已まれず喧嘩を買った大戦争と同じ文脈。何を勘違いしたのか真珠湾攻撃を米議員にアピールした宇国ゼレンスキー大統領ですが、その後の日本國議会では本土爆撃や原爆投下による無差別殺人には微塵も触れませんでした。そしてその演説に議員たちがスタンディングオベーションを贈るお粗末・・・一連のコロナ騒ぎに続く茶番劇。しかし、その様子を液晶画面で覗いて感動したという視聴者が大勢いると聞いて氣を失いそうになりました。ほとんどが悪氣なき善人なのでしょうが、「オイオイ」とでも言おうものなら途端に牙を剥く者もいるようで厄介です。まるで子どもです。

皆が同じ行動をしているときは、
誰も深く考えていないということである

 人が何かを考える時、入力情報(インプット)が間違っていると出力する「考え」(アウトプット)は歪みます。まともな「考え方」をもってしても「考え」はおかしなものとなるのです。そしてその「考え」は、問題の解決に不適当な行動の源となり、ふさわしくない未来を引き寄せる(アウトカム)ものです。私たちは、脳の「認知」を手掛かりとして生きていますので、入力情報が極めて大切。「水槽の脳」と譬えられる所以です。自分の身体をとりまく環境の認知については五感を総動員できますし、また対話や行動を通じてフィードバックを得ることでその精度を高められます。しかし、病原菌のような見えない脅威、VUCA事象への対応を迫られる局面においては、液晶画面から発信される「情報」の評価能力が大事となります。素直でお人よし、合わせ上手の日本人は、ことさらに可謬主義をもって観ていかないと、噂話を信じ込み、判断を誤るものです。

 しかし、可謬主義に立つとしても、疑ってばかりだとただの氣難しい人。この電脳化社会、もはや人間の認知能力では錯綜する膨大な情報を処理できず、最適な意志決定をおこなうことができません。自然の摂理(縁起)がわからなければ、帰結に辿り着けないのです。そのための直観と直感が求められます。直観には教養の余剰、そして直感には修養の余剰が求められます。VUCAの元でアウトカムを望ましいものにするためには、教養と修養をもってインフォメーションをインテリジェンスに統合し、GRITを発動すること。その強さが求められる士は、今、何をおいても學ばなければなりません。

國の亡びる究極の原因は
「道義的生命力」を失ったことにある

 話を會津に戻します。
 最大の國内戦となった戊辰戦争。薩摩長州を中心とする新政府軍と旧幕府側東北諸藩の戦い。戦いとはいえ、慶応4年1月に戦火を交えた鳥羽伏見を経て、4月に勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城を無血開城した後の話です。それでも収まりがつかない新政府軍奥羽鎮撫総督府が東北諸藩に會津藩征討の命を出します。仙台・米澤両藩は列藩連署の嘆願書として、総督府に會津藩の和議、恭順の申し入れと慈悲ある処置の願い入れを提出しました。が、世良修蔵下参謀を中心とする総督使の會津討伐強硬姿勢と無慈悲に過ぎる対応が悲劇的なアウトカムを引き寄せることとなっていきました。

 ここで、電光石火で會津に攻め入った板垣退助率いる土佐断金隊や飯森山で自刃して散った會津白虎隊などについて語りたいところですが、歴史解説は控えることとします。先人から學び、考えるべきは、現代を生きる私たち自身が、何を以って義とし、限りある命を生きるのか、という問いです。どうでもいい話を交わし、身の丈に合った「暇つぶし」を求め、その反復に明け暮れる人生・・・「生きる」とは状態ではなく動態です。そして人間にとっての生きるとは、意志に導かれる営為です。行為の是非はともかくとして、己の義を定め、向かうところが定まらなければ、時間とともに老いるだけの存在であり、もはやヒトのカタチをした畜生です。

大事を為すとき、
邪魔立てするのは
何をする氣もない者である

 示道塾の機会に、「職場力アンケート」や「社員重視項目充足度調査」を社員から集めると、エンゲージ不足の社員ほどに労働の「見返り」に意識が向いていることが露見します。下を向いて、自分の手元、足元ばかり見ながら「足が疲れた」「あと〇キロもある」「なんぼにもならん」と愚痴をこぼしながらトボトボ歩いている。液晶画面に夢中になるうちに、遠くに想いを馳せることをしなくなったのでしょう。
 旅に出ましょう。示道塾で語り合いましょう。
 認知の仕方で意識が変わり、考えが変わり、行動が変わり、成長が変わる。
 士たる者、俯いた顔を空に向ける志を持たねばなりません。

※ 戊辰戦争と土佐藩:江戸時代に入り、徳川家から領地を賜った山内家が治めた土佐藩。新政府軍として鶴ヶ城を開城させた主戦力であったが、幕末には國内の武力衝突を避けるために坂本龍馬の示唆で徳川の大政奉還を進言、戊辰戦争でも反対勢力の説得に努めて無血開城を実現させていくなど、薩摩や長州とは異なアプローチで國内統一を進めていた。
※水槽の脳:(原文 brain in a vat)「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないか」、という仮説。哲學の世界で多用される懐疑主義的な思考実験で、1982年哲學者ヒラリー・パトナムによって定式化された。
※可謬主義(かびゅうしゅぎ):人間が獲得した知識には絶対的に正しいということはなく、将来的に誤りが発見され修正される可能性が常に残されているという認識論上の主張。
※GRIT:成功者に共通して観察される4つの非認知能力
Guts:闘志、Resilience:再起力、Initiative:主体性、Tenacity:執念
※國の亡びる究極の原因は「道義的生命力」を失ったことにある:出典・高山岩男1941「世界史的立場と日本」
※大事を為すとき、邪魔立てするのは何をする氣もない者である:出典・現代版組踊「息吹~南山義民喜四郎伝」