ビスタワークス研究所の志事(24) 文・大原 光秦

「生きる」ことを真剣に考えたとき、
人は「死」を見つめる

 いのちに限りがあることを知るのは人類だけであり、「死」を自覚してこそ、人は圧倒的な人間力を発揮することができます。すなわち、「死」を隠蔽して生きる限りにおいて、他の動物水準の知性に留まり、かけがえのない人生を無益に過ごすことでしょう。

死生學について

 いまを生きる私たちの誰一人として経験したことのない自らの死。自らの死を考えるとは、そのときまでに何を成すか、そしてそのときをいかに迎えるか、つまり、生を意識することにほかなりません。運命に翻弄され宿命に支配されるのではなく、主体的に生を位置付ける。人間は知命し、立命することによってその人生を動かすことができる存在です。楠木正成、吉田松陰らの七生報國の哲學をもって自我超克したその生き様は、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」(葉隠)に示される死生観にあり、この道義精神に基づく究極の美學は日本人特有のものといっていいでしょう。

 一方、新たなる「生」を前提において自らの「死」を位置付ける見立てを生死観ということができます。カマキリやサケなどの生態にも見られるように、生と死の循環は私たちをとりまく大自然の摂理。もちろん私たち人間の生体内にもあります。ご承知のとおり、私たちの脳神経や心筋細胞を除く全身の細胞組織は刻々と入れ替わっています。古い細胞が自ら死を遂げることによって、新しい細胞が息づく。この新陳代謝によって、寿命の限り、人体組織が個体として維持されます。その個体(人間)が死を迎えたとしても次の生を迎え入れることへと循環し、常に「全体」は保たれます。

エントロピーと動的平衡

 宇宙の大原則に「エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)」があります。完璧に整理整頓した部屋でも、放っておけば秩序が崩れ散らかります。温めた風呂はやがて冷たくなります。死体はやがて土に還ります。「秩序あるものは、その秩序が崩壊される方向にしか動かない」のが「エントロピー増大の法則」です。

 私たち人類は、家を建て、自動車やロボットを造るようになりました。当然にエントロピーが増大し続けますので、放っておくと故障し、やがて崩壊します。それに対抗するための対処策は強い素材を用いて頑丈に造ることでした。しかし、エントロピーには抗えませんので、必ず限界を迎える時が来ます。

 一方、生命は異なる戦略を選んだことで、営々とエントロピーを克服してきました。その戦略とは、「頑丈に」造るのではなく最初から「柔らかく」「弱く」創ること。それによって自らを壊し続けることで、最新状態を維持してきたのです。死によって生命を保つ。これを分子生物学者の福岡伸一氏は「動的平衡状態」と名付けました。

 さらに、それに遡ること約40年、ジェームズ・ラブロックは、地球自体がひとつの生命体のような自己調節システムを備えている、とする「ガイア理論」を提唱しました。命の宿る惑星、私たちの地球は、死と生による動的平衡の流れによってエントロピーに適応した、という理論です。

 しかし、地球上に現れた生命体38億年の歴史の末端、わずか200年前から急増殖を始めた人類は、機械文明によって生態系を操作し始めました。「頑丈に造る」技術的介入がどんな顛末を辿るのかは自明というものでしょう。そして、その延長線上に遺伝子改変を加速させる現代の疫病問題があります。動的平衡が保たれなくなるのではないか、と不肖の私が危惧する所以です。

素粒子と日本人

 八百万の神々と共生してきた我が國の先人たちは、死と生の連綿とした循環をくらしに投影して今日までいのちを繋げてきました。文化の連続性は人類史上最長の歴史を更新し続け、最長寿國にもなっています。当事者からすると「そうなの?」と不思議な感じがするでしょうが、まったく自然の道理に適ったことです。
 ヒトとは「人」ではなく「仁」、ヒトとヒトの間に息づく「人間」であるとする和の國では、いのちとは他者との感謝の関係性に息づくものです。それが家であり村であり、やがて國家観となり、義勇公に奉ずる特攻精神へと昇華しました。示道塾でお話ししていることですが、最初から生命型(ティール)組織を目指すのは筋が悪い。まずもって家族主義文化の再生に努めること。その親密な関係性があってこそ、イザというときに生命特有の躍動的な適応力が現れるものです。

 「和を以って貴しと為す」ことを「たいせつ」とした日本人にとって「はたらく」ことは「傍樂」ことであり、所属集団に貢献する自らの在り方=死生観を重んじ、実践し続けることによって永らえてきました。しかるに米国は、「個人としての尊重」という、凄惨な略奪史の後悔から生み出した思想を日本国憲法に流し込みました。教壇に立つ無學の徒らがその「個人教」を布教し続けたことによって、日本の子どもたちは道義を學ぶ機会を失い、繋がっていたいのちが孤立し、バラバラの素粒子の如くなってしまっているのだと考えます。武士道精神が棄却されたことで死生観が消失しているのです。いのちが輝きを放つはずがありません。

死生観ばかりか死観をも破壊

 細胞が自己分解的に死することによって新しい細胞に置き換わる、その細胞死をアポトーシスといいます。生を前提とする健全な死です。一方、事故や病気によって失ってしまう破壊的な細胞死をネクローシスといいます。

 奴隷制度や國内戦争による大規模な組織的殺戮行為がなかった我が國において、愛する家族の「死」によって復讐心を抱いたり、いつまでも嘆き苦しむということは多くありませんでした。凶作等による食糧不足のため、口減らしの「姥捨て」や「間引き」という習俗は記録されていますが、いずれも家族が生き残ることを前提とするアポトーシス的死と位置づけられます。

 しかし、大東亜戦争の時代、B29による無差別本土爆撃と2発の原子爆弾の投下によって生死観までもが徹底破壊されました。日本人が伝統的に宿し継承してきた静かなるアポトーシスの死が、虐殺行為によって血塗られたネクローシスの死の衝撃ですっかり上書きされてしまったのです。  やがて核家族化が進み、自宅で死を迎える人も、家に棺を置くこともなくなり、さらには墓仕舞いが通俗化する時代。生死観を見失い、ネクローシスの死しかわからなくなった現代人は、いつしか「死」を隠蔽して生きるようになりました。そして「死なない理由」を見出せなくなった弱くて小さないのちが自死を選択しています。それもまた生を前提としないネクローシス的消滅といっていいでしょう。

 紙幅が尽きました。私たち士がどうあるか、何を為すか。すべて自明のうちにあります。実践躬行して参りましょう。